妻、やめます。

モラハラ夫と過ごした日々の回想録

子なしハラスメント〜モラハラ夫と義家族の無情と無神経

生きたまま死んでいく心、子なしハラスメントの苦悩


結婚前の中絶
結婚後の流産


泣いて泣いて泣いて

心身の傷を抱えながら立ち上がり


〝私のとなりには夫がいる〟


そう信じて
そう言い聞かせて

前に進んできました。


40歳の扉が見えてきて
子どもを望むにはかなり厳しい状況だと分かりつつも


夫の希望・理想を叶えるため
また、私自身の積み重ねられた思いもあり


わずかな希望の灯火を見失わず
しっかり辿り着けるよう

人知れず努力をしていました。


それは

子どもができるように身体を整えることを意識する、という一般的なものだけではなく


夫から
どんなにひどいモラハラ行為を受けても
理不尽な傷を負っても


自身の行い、心のあり方を振り返り

夫に見合う妻になれるように
失った子どもたちに許されるように

自身を律し正していく、

というようなことを心においていました。


それらを乗り越えた先にしか、私の幸せはないと思っていたからです。


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〝子どもができない苦悩〟




私はこれをひとりで抱えていました。


となりにいる夫は

私の心に寄り添うどころか
さらに傷をえぐり、たびたび絶望に陥れました。



今回は、子どもの不妊に苦悩する妻へのモラハラ行為のエピソードの中から、とても強烈なショックと心の傷を残した〝とある夏の帰省中に起こった出来事〟についておはなしいたします。

子どもができないのは私のせい、という呪縛


先にも少し触れましが、私は

子どもができないことに大きな責任を感じていました。


ひとつは、

すでに高齢妊娠の域なので
一般的に妊娠しづらいということ


もうひとつは

夫から何度も


〝あなたがそんなだから子どもができない〟


と、私の人格の落ち度を責められていたからです。


私がダメだから、夫とうまくいかない。

夫婦円満じゃないから
夫を満足させられないから

人として未熟だから


失った子どもたちからも、

新しい命を授かることを許してもらえない。


夫の日々の言動や行為は

私にこのような思考を植えつけました。

祖母の梅干しに願掛け


夫の実家に帰省すると
必ず祖母が手作りの梅干しをもたせてくれました。


「これ食べてれば子どもできるから」


一番最初に言われたときは応援してくれているのだと思い、素直にうれしかったです。


私は実は梅干しが大の苦手なのですが

これはおばあちゃんが育てた梅
そして、手間暇かけられた梅干し

苦手でも、これを頑張って食べていたら子どもができるかも!

と、前向きに毎朝ひとつずつ願掛けのように食べるようになりました。


しかし、

子どもができないままあっという間に次の帰省の時がやってきます。


私は妊娠の報告ができないことで、毎回気が重くなりました。


「これ食べて早く子どもね」
「次こそは子どもね」

「ちゃんと食べてる?たくさん持って行きなさい」


おばあちゃんにはきっと悪気はない、けどとても苦しい。


明るく返事した後、ひとり離れの梅干しが保存してある部屋に行くとこみ上げた感情が溢れてしまい、ジップロックの袋を握ったまま泣きました。

とある夏の無情と無神経


結婚して3年目の夏。

夫の実家に帰省していたときのことです。


穏やかな午後。

とても静かで、家の中は暑いものの開けっぱなしのドアや窓から入る風が時折気持ちよく感じました。


その日は近くに住む夫の弟さんが遊びに来ていて、食卓テーブルには私たち夫婦と祖母が座り、すぐそばに弟さんと義母もいて、みんなで和やかにスイカを食べていました。


弟さんがスマホで息子さん(甥っ子)の写真を見せてくれたので、私は


「うわぁ!お兄ちゃんになったねー!!」
「どっちに似てるかなぁ〜」


などとはしゃぎながら談笑していました。


すると突然、祖母が

 

「どっちに似てるかなんかどうでもいい」


と鋭く一喝し、穏やかな空気が切り裂かれました。



「いいかげん子どもはどうなってるんだ」


「何やってるんだ、早くしろ」



など、祖母はしばらく乱暴な言葉を続けました。


私の正面に夫が座っていて、
祖母は夫の方を向いて言葉をぶつけていましたが、夫は顔色ひとつ変えず黙ったままスイカを食べていました。


誰も祖母の暴言を止めようとしませんでした。



私は、この悪夢のような最悪な状況に耐え切れず


「私、ちょっとトイレ行ってきます!!」


と平静を装って立ち上がるつもりでしたが、最後まで言い切る前にショックで声が震え、涙が溢れ出てしまいました。


そのまま離れの私たちの部屋に駆け込み、布団に突っ伏して大泣きしました。

共感しないモラハラ夫のさらなる追い打ち


それはどういう感情か

今振り返ってもうまくまとめられませんが、とにかくあらゆる痛みと傷みを全身から剥がすように声を上げて泣きました。


泣き止んでも、再び涙があふれて止まりませんでした。


かなり時間が経ってから夫が来ました。


夫は私に「ごめんね、ごめんね」と繰り返しました。


私はまだ泣き止むことができず
夫に感情をぶつけてしまいました。


「中絶したことを知ってて、何であんなに酷いこと言えるの?」


夫は「あれは俺に言ったんだ。ムギコにじゃない」と言いましたが、誰に対してであってもあの場であのような発言自体があってはならないことであり、私には夫の言う言葉があまりにも他人事で無関心なように感じました。


「イチオも中絶は辛かったって言ってたよね。あんなこと言われて何とも思わないの?」


夫はそれまで柔和な低姿勢で「ごめんね」と繰り返していた態度が一変し、表情が黒く険しくなりました。

無言で凄み睨みつける夫。


私は頑張って言葉を重ねました。


「なんであんなひどいこと言われてんのに何も言い返さないの?何で私を助けてくれないの?」

「傷つくようなことを言われてて、黙ってスイカ食べてるのおかしいよ」



夫は恐ろしい形相で睨んだ目つきのまま。



あらためて

「イチオは何とも思わなかったの?」

と問いましたが、やはり夫は何も発しませんでした。



「自分の奥さんが(子どものことで)辛い思いをしているのを知っててあんな酷いことを言うおばあちゃんをイチオはどう思うの?」


これに夫はただ一言「別に」と答えただけでした。



ところが


「人の心を傷つけるような家族はどう思うの?」


と問うと


「俺の家族はそんな人たちじゃない!」


家族のことを責められたと感じたらしい夫は、ここで急に反論を始めました。


私についてはずっと冷淡にだんまりを通していましたが、家族のこととなるときっぱりと私の言葉を否定し、家族を庇い守りました。



私は激しい孤独と絶望におそわれました。



私は夫の助けを求めていました。

しかし、

言葉と時間を重ねれば重ねるほど夫は私を乱暴に突き放し、追い詰める一方でした。



私は感情的に

酷い
冷たい
辛い

と言葉をぶつけてしまいました。



夫の表情や言葉はさらに怒気が増し、


「こんなに謝ってんのに。もういいよ」

「勝手にしろよ」

「おまえの感じ方がおかしいんだよ。いいかげんにしろ」


などと吐き捨て、恐ろしい空気をばらまきながら荒々しく布団をかぶると、そのまま横で寝てしまいました。

心を殺す無情と無神経


その後、私はどうしたらいいのだろうと悩みました。

感情が散らかり答えが出ないまま夜になりました。


傷ついたとはいえ、夫に感情的になってしまったことや、夫から「ごめんね」と言われた時に笑って流すことができなかった自身の未熟さへの反省と未だ拭いきれない傷みと悲しみが渦巻いていました。


とにかくまだ実家には滞在しなければならなかったため、悲しみの感情をぐっと奥深くに抑え込み、心を切り替えて過ごすことにしました。


夫も
祖母も
義母も

気持ち悪いくらいに何事もなかったような様子でした。


義母と2人きりになる機会があり、
その時はさすがに義母から何か言葉があるかなぁと思いましたが、義母は一切目を合わせようとせず、普通に話しかけても事務的で無機質な返答があるのみでした。


せめて夫とは先の出来事について少し話そうかと思いましたが、あまりにも完璧で隙のない様子に何も言えませんでした。

見た目は何ともないのに、いざ夫を前にすると恐ろしくて言葉がでないのです。


このような夫や家族の様子を目の当たりにし、私は見たくなかったもの気づきたくなかったことを確信してしまうという禁忌を犯してしまったように感じました。



この家族の中では

何かあっても何もなかったことにされる

家族の輪を一切乱さないように
自身の心は抑圧しなければならない

人の心よりも、世間体

家族の理想に見合わないものは容赦なく排除されるか、見捨てられる



〝このまま子どもができなかったら、私はどうなってしまうのだろう〟



そう考えると、自分の行く末に心の底から体の芯から不安や恐怖が湧き出し、苦しくなりました。



帰省後、何かの折に

〝あの日のことについて、夫の家族と何か話したか〟

〝私が部屋を飛び出した後、何か話していたのか〟

を夫に問いました。


夫は「特に」「別に」といずれもかなり不貞腐れたようなひどく感じ悪い態度で答えました。


義母は何か言っていたか、と聞くと「何も話してないからあとで聞いておくよ」と言われ、後日私からあらためて聞くと


「母親に聞いたけど、母親はそばにいなかったから、おばあちゃんが何か言ってたの知らなかったって言ってたよ」


とあっさり言われました。



そばにいなかった?
知らなかった?


本当に母親がそう答えたのか夫の作り話かは分かりませんが、いずれにしてもあんなに恐ろしい状況をともにし、私が傷つき取り乱した出来事があったにも拘らず、明らかな嘘を平然と答える夫に愕然としました。



このような一連の出来事があり、夫・夫家族への不信感や恐怖心が激しく心を締めつけました。


〝夫の実家に移住して同居〟という約束があり予定された未来に、新しい希望や夢を見出そうと必死に結婚生活を続けてきていましたが、そんな私の心を覆う黒いものが生まれていました。


〝同居したら私の心は殺される〟

〝私は私ではなくなる〟

〝私は孤独だ〟


張り続けていた見えない心の糸のうちの何本かは、この時にほころんでいたと思います。

〝生〟を求めながら〝死〟に惑う


中絶を強要され
今度は子どもをつくれと急かされる

私の心はボロボロでした。


正直言うと、
私は子なしハラスメントとは無縁だと思っていました。


なぜなら、結婚前に〝子どもを堕ろせ〟という惨い要求をされているので、まさか結婚してから〝子どもをつくれ〟なんて言うことはないだろうと思っていたからです。


友人にも、〝おそらく子どもができないことを責められたり急かされることはないと思うから、そこは少し安心している〟というようなことを話したりしていました。


しかし、
私の思いは大きな音を立てて崩れました。


私が考える、人としての〝配慮〟〝思いやり〟〝いたわり〟は夫たちには備えられていませんでした。



中絶後、信じた夫。

子どものことに関して本当に寄り添ってほしい人は夫であり、もし夫の家族から冷酷な仕打ちにあったとしても、夫から真のあたたかい心を感じ取ることができていたら、安心できる心の居場所を共有できていたら、私は悲しみに埋もれずもっと強くなれていたと思います。



子どもを失くした傷み
子どもに恵まれない不安や恐怖


ひとりでこれらを抱えていくのは、

言葉で言い表せないほどに苦しく、つらいことです。



必死に新しい〝生〟を待ちわびながら

私の心と身体は〝死〟を感じていました


今でもこの感覚に見舞われることがよくあります。


これを乗り越えるには、
自分で新しい希望を見つけていかなければならないようです。



モラハラ夫や義家族にとっては、

ただ家族の世間体を守るため
自分の居場所や立場を守るために

無意識にしていたことかもしれません。


しかし、
数々の心ない言動・行為によって


私は子どもができないことを自身の責任として背負い、理不尽な傷を受け、自分が人として価値がないダメな人間だと追い込んでしまうようになりました。


夫の元を離れ時間が経ち、夫や義家族のモラハラ行為を冷静に振り返ったり考察することはできるようになったものの、子どもに恵まれなかったことへの悲しみや傷みの感情は今も色褪せずここにあります。


未だ癒えない心の傷・トラウマはこれから時間をかけてゆっくり癒し、修復・修正していくつもりです。

 

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